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風土

能登半島の塩田、波と火と五百年

この記事の要点

  • 能登半島・珠洲市の揚浜式塩田で、約五百年続く海水を運び上げる製塩法の現場を取材した記録。
  • 夏期、海岸から塩田まで海水を桶で運ぶ「汲み上げ」の労働量と、現代の塩業者の経済性の実情。
  • 国の選定保存技術に指定されている揚浜式と、流下式・イオン交換膜法など現代の主要製法の比較。
  • 能登半島地震(二〇二四年)以降、塩田が抱える復旧の課題。

塩田の上で煙が斜めに上がる朝、五時三十分。火を入れたのは四時で、まだ夜が完全に明けきっていない。煙突から出る煙の色は最初の三十分は灰色、それから白く変わる。海水を煮詰める釜の中で、塩分濃度が一定の水準を超えた瞬間、結晶が浮かび始める——この変化のときに煙の色が変わる、と塩業者は説明してくれた。

本稿は、能登半島・珠洲市の揚浜式塩田で過ごした三日間の覚書である。揚浜塩田は、海水を桶で汲み上げて砂地に撒き、太陽と風で水分を蒸発させて塩分濃度を上げ、それを煮詰めて塩を結晶化させる伝統製法である。文化庁の選定保存技術に指定されており、現在の能登半島では数軒の塩業者が継承している。

朝四時、海岸の桶と十段の階段

塩田は海面から二・五メートルほど高い位置にある。海岸へ降りる十段ほどの石段、そこから海水を桶で汲み、塩田まで運び上げる。一回の運搬量は約十八リットル、男性で十五キロ前後の重量。これを夏期の最盛期には一日に二百回以上繰り返す、と聞いた。

この労働量は、製塩量に対して非効率である、と最初は誰でも思う。実際、十九世紀末から二十世紀にかけて、揚浜式は流下式や、海水を直接釜で煮詰める方式に置き換えられ、戦後の塩専売制度のもとでは一度ほぼ姿を消した。一九九〇年代以降の塩の自由化を経て、伝統製法として再評価された経緯がある(専売公社の沿革・文化庁公表資料)。

もっとも、再評価されたのは「効率の悪さ」そのものではない。揚浜の塩は、現代の機械製造塩と異なるミネラル組成と粒の形を持つ。料理人の側の需要——和食の調理場、製パン、製菓——がこの製法を経済的に支えている。

十時、砂の上の海水が乾く

海水を撒いた塩田の砂は、夏の午前十時頃には表面が薄白くなる。塩の粒が砂粒に付着しているのである。これを夕方近くにかき集め、海水を上から流して塩分濃度を高めた「鹹水(かんすい)」を作る。鹹水を作るまでに、汲み上げから集めるまで、半日以上の作業が必要になる。

鹹水を釜で煮詰めるのは、別の日の作業である。釜の温度を維持するのに薪を使い、煮詰めるのに八時間から十二時間。釜を見守る人は交代で寝るが、火加減のミスは一日分の塩を駄目にする。「数字で管理できない」というのが、塩業者の繰り返し用いた表現だった。伯方島の塩工場のように、流下式と現代設備で大規模に作られる塩とは、製造工程の段階数も労働の質も別物である。

塩は調味料の代表のように扱われるが、製法を一つ追うと、地域の労働史と直結している。能登の揚浜は、その典型である。

三月、地震からの復旧の現在

二〇二四年の能登半島地震は、揚浜塩田にも被害をもたらした。塩田の地割れ、釜場の損壊、海岸からの石段の崩落——文化庁および石川県の公表する被災状況報告では、複数の塩業者が一時的に生産を停止した。本稿執筆時点で、一部は再開しているが、すべての塩田が震災前の生産量に戻ったわけではない。

復旧の中心にあるのは、塩田そのものの修復ではなく、海岸の地形変化への対応である。地震による地盤隆起で、海岸線が数メートル沖に後退した地点がある。海水の汲み上げ場所が変わり、運搬距離が長くなる。すなわち、五百年続いてきた労働の前提条件が変わってしまった。

ただし、塩業者の言葉として印象的だったのは「変わったところに合わせるしかない」という落ち着いた口調だった。揚浜の塩は、もともと天候・海・地形に「合わせる」ことで成立してきた製法である。地形が変われば手順が変わる——それは江戸期からの数百年でも経験されてきたことかもしれない、と聞いて納得した。

地誌としての塩、製法と土地の関係

塩は海岸線のどこでも作れる、と思われがちだが、製法によって最適地が異なる。揚浜式が能登半島で続いてきたのは、夏の日射量、北陸の海岸地形、砂の質、薪の入手しやすさ——これらの条件が揃っていたからである。沖縄や瀬戸内には別の製法が、津軽や羅臼にはまた別の海産加工が成立してきた。日本海側の漁業集落と能登の塩田は、同じ「日本海側」と一括りにされがちだが、海と陸の境界での仕事の組み立て方は大きく異なる。

裏を返せば、塩田を「伝統」として保存することは、塩の文化財化だけではなく、その地形・気候・労働史を含めた地誌全体の継承という意味を持つ。能登の煙突から朝五時に立ち昇る白い煙は、製品の煮詰めだけでなく、その場所そのものが続いていることの証だった。

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NipponAtlas 編集部

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