TOPIC FEATURE · 年表
日本の歴史的街道、千二百年の年表
奈良時代の駅路に始まり、平安・鎌倉の参詣道、五街道、明治以降の旧国道、そして廃線後の旧街道まで──日本列島を走る「道」は地誌の骨格でした。本年表は紀行・風土・古道・名所のすべてに通底する道の歴史を時系列に整理し、それぞれの記事への参照軸として編集部が更新するアトラスです。
本年表は、日本列島を東西南北に走る歴史的街道——奈良時代の駅路、平安・鎌倉の参詣道、江戸期の五街道、明治以降の旧国道、そして廃線後の旧街道まで——を時系列に整理した、NipponAtlas の編集アトラスの中核です。
地誌の骨格は道です。土地と土地、集落と集落、産業と産業をつないでいる線が、地名と建物の表側に隠れて、時代ごとに別の姿で走っています。本年表では、各時代の代表的な道とその役割、現代に残る痕跡、そして本サイトの関連記事へのリンクを併記しました。
編集部は本年表を半年ごとに大幅更新し、新しい一次資料が確認できた都度、内容を改訂しています。記述に誤りや補足のご指摘がある方は、お問い合わせからお寄せください。
古代(七〜九世紀)
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律令期
駅路の整備、五畿七道
大宝律令(七〇一年)以後、中央集権体制のもとで五畿七道の駅路が整備された。三〇里(約一六キロ)ごとに駅家を設け、官人の公務通行に備えた。山陽道は当時の重要幹線として、現代の山陽自動車道とほぼ同じ経路を辿る区間が多い。
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平安初期
熊野信仰と参詣路の起こり
平安時代中期、上皇・貴族による熊野御幸が始まる。京都から熊野三山までの参詣路として整備が進み、後の中辺路・大辺路・伊勢路の原型が形成された。十一世紀末の白河上皇の熊野御幸は九度にわたり、参詣路の社会的位置を決定づけた。
中世(十二〜十六世紀)
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鎌倉期
宿駅制の整備と関所の設置
鎌倉幕府の成立以後、東海道は鎌倉と京都を結ぶ最重要街道となり、宿駅(現在の宿場)と関所が体系的に置かれた。御家人の参勤と物資輸送のための制度設計が、後の江戸期街道制度の前史となる。
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室町期
伊勢参宮と東海道の庶民利用
室町期になると、伊勢神宮参拝(おかげ参り)が庶民層に広がり、東海道は武家・商人だけでなく一般参拝者の通行路となる。「お伊勢さん」を中心とする参詣文化が、街道沿いに宿場経済を生み出した。
江戸期(十七〜十九世紀)
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慶長〜元和
五街道の制定と幕藩体制
徳川家康・秀忠による五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道)の整備が、慶長九年(一六〇四年)以降本格化。各街道に一里塚を一里(約四キロ)ごとに置き、宿場制を全国に展開した。東海道五十三次はこの制度の代表例である。
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元禄
参勤交代と街道経済の発達
元禄期、参勤交代の制度的安定により、各藩の大名行列が定期的に街道を通行。宿場の本陣・脇本陣・旅籠の階層化が完成し、中山道の馬籠・妻籠のような山中宿場でも宿泊機能が高度化した。
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化政〜天保
広重『東海道五十三次』と街道の視覚化
天保四〜五年(一八三三—三四年)、歌川広重が保永堂版『東海道五十三次』を刊行。五十五枚の連作浮世絵により、五街道のなかで東海道のイメージが視覚的に定着した。これは後世の地誌・観光・文学にも影響を残した。
明治期(一八六〇〜一九一〇年代)
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明治初期
宿駅制の廃止と鉄道網の起こり
明治五年(一八七二年)、新橋—横浜間に日本最初の鉄道が開業。明治三十年代までに東海道本線・東北本線・山陽本線が順次開業し、江戸期の街道は徒歩通行路から鉄道沿線へと役割を移していく。
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明治後期
熊野・伊勢の鉄道接続
紀勢本線の段階的開業により、熊野三山への参詣は徒歩・舟下りから鉄道へ移行した。熊野古道の参詣機能は急速に低下し、地元の生活道路としての性格に変わっていく。
昭和戦後(一九四五〜一九八〇年代)
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高度成長期
高速道路網と国道整備
昭和三十八年(一九六三年)の名神高速道路 栗東—尼崎間開業を皮切りに、全国高速道路網の整備が進む。国道一号線は東海道沿いの幹線として再編され、街道の経路を引き継ぎつつ、箱根のような難所は迂回ルート(東名高速・新東名)が代替する。
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一九六四〜
東海道新幹線開業と「時間の圧縮」
東京オリンピック直前の昭和三十九年(一九六四年)、東海道新幹線が開業。東京—大阪間が約四時間に短縮され、街道としての東海道は四〇〇年の歩行時間を二日から二時間に圧縮した。
平成・令和(一九九〇年代〜現在)
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平成
世界遺産登録と「歩く道」の再評価
平成五年(一九九三年)に姫路城・法隆寺、平成十六年(二〇〇四年)に「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコ世界遺産に登録。観光資源として街道・古道の再評価が進み、熊野古道中辺路は国際巡礼路として再生した。
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平成後期
住民憲章と街道保全モデル
長野県南木曽町・妻籠宿は昭和四十六年(一九七一年)の保存条例、昭和四十八年(一九七三年)の住民憲章により、宿場町としての街並みを住民自治で維持してきた。馬籠—妻籠の八キロが現代でも歩行体験を成立させているのは、この保全モデルの結果である。
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令和
能登半島地震と塩田・古道の被災
令和六年(二〇二四年)の能登半島地震により、半島の揚浜式塩田、白米千枚田、参詣路の一部に被害が発生。地殻変動による海岸線の隆起が、五〇〇年続いた塩生産の前提条件を変えた地点もある。文化財としての保存と災害復旧の連携が、現代の地誌の新しい課題となっている。
編集メモ: 本年表は『街道の日本史』(吉川弘文館)、『国史大辞典』、各地方自治体の歴史資料館が公開する一次資料を参照しています。記述に誤りや補足のご指摘がある方は、編集部までお寄せください。