この記事の要点
- 瀬戸内海・直島で、本村港から地中美術館までを歩いた一日の記録。漁村と現代美術が同じ島に並存する現状の観察。
- 福武書店(現ベネッセホールディングス)の「直島文化村構想」が一九八八年に始まり、三〇年以上を経た現在の島の構造。
- 島の住民約三千人と、年間来島者約七〇万人(コロナ前)の比率が島の生活に与える影響。
- 「アート観光地」と呼ばれる現状の表と、漁業と農業を続ける島民の日常の裏。
直島・本村港にフェリーが入る音は、午前八時十二分。岡山県宇野港からの早朝便で、乗客は約六〇人、半数以上が観光客と見受けられる。降りた地点はガラス張りの待合所——SANAA設計の海の駅で、二〇〇〇年代の建築である。フェリー乗り場と現代建築が地続きで、観光客はここで島の「現在」をまず受け取る。
本稿は、香川県直島町(瀬戸内海・直島)を歩いた一日の覚書である。本村港から地中美術館・李禹煥美術館・ベネッセハウスミュージアム・つつじ荘地区を経て、再び本村に戻るまでの約九時間の記録。歩行とレンタサイクル(電動)を併用した。
本村地区、家プロジェクトと住宅
本村は直島で最も古い集落の一つで、江戸期から漁業を中心に営まれてきた。現在も住民が居住する地区で、家屋の多くは木造の伝統建築である。一方、本村地区の路地のなかには「家プロジェクト」と総称される現代美術作品が点在する。空き家を改修してアーティストが作品化した形式で、宮島達男「角屋」、ジェームズ・タレル「南寺」、内藤礼「きんざ」など複数の作品が常設されている(ベネッセアートサイト直島・公式ガイド)。
家プロジェクトの特徴は、観光客向けに新築された美術館とは違い、住宅地のなかにそのまま埋め込まれている点である。観光客が路地を歩いて作品を巡ると、隣家の洗濯物や、住民の自転車や、夕食の匂いがすぐ脇にある。直島の現代美術が「観光地化された美術館区域」だけで完結しないのは、この埋め込み方の選択による。
もっとも、住民の側の負担も無視できない。本村地区の人口は約四〇〇人、観光客の流入は週末で一日数千人に達する。妻籠宿と同様、生活道路と観光経路が同じ街路で共有されている。妻籠が住民憲章で「売らない・貸さない・壊さない」と明文化したのに対し、直島は美術プロジェクトの運営者(福武財団・ベネッセホールディングス)と地元町との協議で運用されている。
地中美術館、コンクリートと光のなか
本村から南へ自転車で約一五分、地中美術館に到着。安藤忠雄設計、二〇〇四年開館。建物の大部分が地中に埋設されており、地上から見える部分は最小限である。クロード・モネ「睡蓮」シリーズ、ジェームズ・タレル「オープン・スカイ」、ウォルター・デ・マリア「タイム/タイムレス/ノー・タイム」——三作品が常設展示される。
入場制限が運用されており、繁忙期は午前十時に整理券配布、午後の入場者数も上限がある(直島・公式ガイド)。入場後、館内は写真撮影禁止、私語も控えるよう案内される。「美術館の運営マナー」として通常の規定よりも厳格で、これは作品の体験条件の維持を優先する設計に基づく。
モネの「睡蓮」展示室は、天井から自然光が落ちる構造になっている。曇天と晴天で部屋の表情がまったく変わる。十一月の朝、雲が次第に切れていく時間帯で、部屋の照度が十分のあいだに二倍ほど変化した。金閣の朝七時と十時半でも、同じ場所が時刻で表情を変える観察をしたが、地中美術館のモネ室では、それが分単位で起きる。
地中美術館は、作品を「展示する」のではなく、作品の体験条件を「演出する」建築である。観光客が時間と天候を選び直す動機を、建築自体が要求している。
つつじ荘地区、海岸のかぼちゃ
島の南東部、つつじ荘地区にはベネッセハウスミュージアムがある。安藤忠雄設計の宿泊施設兼美術館で、館内に島内のアート作品の一部が常設展示されている。屋外の海岸には草間彌生「南瓜」がある——黄色地に黒水玉のかぼちゃのオブジェで、直島の象徴的なイメージとして繰り返し撮影される。
この「南瓜」は、二〇二一年九月の台風被害で破損し、修復のために約一年間撤去された経緯がある(草間彌生 オフィシャル発表・直島観光協会公表資料)。修復後、二〇二二年に再設置された。屋外彫刻が自然災害で損傷する事例は、現代美術の屋外展示が増えるにつれて世界各地で増えており、直島はその先行事例の一つとなった。
屋外の海岸彫刻として、もう一つの草間彌生作品「赤かぼちゃ」(宮浦港)もある。こちらは触れる作品で、写真撮影スポットとしてさらに人気が高い。しまなみ海道で渡った瀬戸内海と、直島の海は同じ海だが、観光資源としての構成は別物である。しまなみは「橋と海岸線の景観」、直島は「現代美術と漁村の混在」が中心である。
島民三千人、来島者七十万人
直島町の人口は、二〇二〇年代初頭で約三〇〇〇人(直島町・公表統計)。コロナ前のピーク年(二〇一九年前後)の来島者数は約七〇万人と推定される。これは島民一人あたり年間約二三〇人の観光客に相当する。日本海側の漁村集落とは桁違いの観光圧である。
もっとも、直島町の主要産業は依然として漁業と農業である。本村地区の路地を朝七時に歩くと、漁師の家から漁具を運ぶ音が聞こえる。観光客が現れる九時から十時の時間帯と、住民の朝の時間帯は、明確にずれている。同じ路地が、時間帯で「島民の生活道路」と「観光経路」を交代する。
「アートの島」というキャッチフレーズで紹介される直島の実体は、もう少し層が重なっている。漁業集落としての本村、農業地としての島内中央部、現代美術プロジェクトの拠点としての南部——三つの機能が同じ島で並列に運営されている。一日の歩行のなかで、これら三つを順番に通り過ぎることが、直島を訪れる体験の骨格になる。
三〇年の文化村構想、地誌としての島
福武書店(当時)が「直島文化村構想」を発表したのは一九八八年。それから三〇年以上を経て、直島は世界の現代美術地図に入る存在になった。一方、島の漁業従事者数や農業従事者数は緩やかに減少を続けており(直島町・公表産業統計)、観光経済への依存度が高まっている。観光振興と地域経済の持続性は、直島でも継続的な議論の対象である。
裏を返せば、直島の現在は「現代美術が漁村を救った」というシンプルな物語では説明できない。漁村と農業集落が現代美術プロジェクトを受け入れ、観光客の動線を生活圏に組み込み、三〇年かけて新しい島の地誌を作ってきた——その過程の現在形が、いま観光客の見ている直島である。姫路城の十年の自然な落ち着きと同様、直島の文化村も、現在から見える状態は「完成形」ではなく、変化し続けている時間断面である。地誌としての直島は、まだ書き終わっていない。