この記事の要点
- 熊野古道・中辺路ルートを、田辺市から本宮大社・速玉大社・那智大社の熊野三山まで五日かけて歩いた覚書。
- 世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」登録(二〇〇四年)から二十年、巡礼路としての中辺路の現在。
- 欧米系歩行者比率が高い理由を、田辺市熊野ツーリズムビューロー公表資料から整理。
- 本宮温泉郷で滞在しながら、巡礼と観光の境界線について考えたことの記述。
三日歩いた頃、足の裏が痛むのではなく、別の場所になる感覚が出てくる。最初の二日は筋肉の疲労、三日目は皮膚の状態、四日目以降は呼吸と歩幅の周期性——疲労の現れ方が層になって入れ替わる、と歩いた人が言うのは、誇張ではなかった。本稿は、熊野古道・中辺路を五日かけて歩いた覚書である。
中辺路は、田辺市から本宮大社まで山道を進み、そこから熊野川沿いに新宮・速玉大社、那智の山中・那智大社へと至る。総距離は七〇キロ前後、編集部は田辺—本宮間を三日、本宮—速玉—那智間を二日に分けた。一日あたり一三〜一八キロ、標高差は累積で一〇〇〇メートル前後の日もある。
滝尻王子から、最初の登り
中辺路の起点は滝尻王子である。「王子」は熊野詣の途中に置かれた小さな神社で、平安期から鎌倉期にかけて整備された。九十九王子と総称され、現在も中辺路には複数の王子社跡が残る(和歌山県教育委員会・公表資料)。
滝尻から最初の急登が始まる。高低差は四〇〇メートルほど、距離にして二・五キロ。木の根を頼りに登る区間が続き、足首と膝への負担が大きい。一方、登り切ると視界が開け、富田川の谷が見下ろせる。十一月の朝、谷底に霧が溜まっており、上下が逆転したような風景に出会う。
中辺路を歩く欧米系の比率は高い。田辺市熊野ツーリズムビューローは、二〇〇〇年代後半からスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路との「共通巡礼者」制度を運用しており、二つの巡礼路を完歩した人に証明書を発行している(同ビューロー公表)。サンティアゴ路とは異なる山中ルートだが、巡礼路としての国際的位置づけが、近年の歩行者構成に反映されている。
本宮大社、火と水と熊野川
三日目の夕方、本宮大社に到着した。本宮大社は熊野三山の中心で、二〇〇四年の世界遺産登録の中核遺構である。現在の社殿は明治二十二年の大水害後、現在の場所に移された(本宮大社 公式略歴)。それ以前の旧社地は「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれ、熊野川の中州にあった。
大斎原跡には、現在、日本最大級の大鳥居が立つ。高さ約三十四メートル、二〇〇〇年に完成したもので、文化財ではなく現代の構築物である。それでも、旧社地の規模感を視覚化する装置として、明治の水害が変えた地理を逆方向に補ってくれる。
本宮の門前に「湯の峰温泉」「川湯温泉」「渡瀬温泉」の三つの温泉郷があり、熊野詣の参詣者は古くからここで身を清めた。「湯垢離(ゆごり)」と呼ばれる潔斎の習慣の名残である。東海道とは異なり、巡礼路としての熊野は、温泉を旅程に組み込んだ構造を持つ。
本宮で身を清め、川を下って速玉、山を登って那智——熊野三山参詣は、地形と水を巡る順序を持つ一つの長い儀礼だったことが、歩いて初めてわかる。
速玉大社、新宮、海の近さ
四日目、本宮から熊野川沿いに新宮市の速玉大社まで下る。本来の参詣ルートは熊野川を舟で下る「川の参詣道」だった。現在も、不定期に観光用の舟下りが運航されているが、本数は少ない。編集部は徒歩で並行する道路を下った。約三〇キロを一日で歩くのは負担が大きく、途中で公共交通機関も併用した。
速玉大社は熊野川河口近くに位置し、那智の山中とは対照的に「海に近い熊野」を体験できる場所である。十二月初旬、海風が強く、境内のイチイガシの巨樹が音を立てて揺れていた。樹齢千年と推定される御神木の前で立ち止まると、海の音が背中越しに聞こえる。日本海の漁村集落とは別の意味で、海と社が隣接する場所だった。
那智大社、滝音と「祈り」の意味
最終日、那智大社へ向かう。那智の滝(落差一三三メートル、日本最大級の直瀑、文化庁公表)を御神体とする神社で、滝のすぐ脇から境内へ登る石段が続く。十一月の那智山は紅葉の最盛期で、参拝者の列が石段で停滞する。それでも、滝音が常に背景にあり、その音は石段の上のほうまで届く。
那智大社で最後の朱印を受け取り、五日間の歩行を終えた。もっとも、印象的だったのは到着の瞬間ではなく、その前の数キロにわたる山道の沈黙だった。歩く目的が「到着」ではなく、歩行そのものに移り変わっていく感覚——巡礼路が体験させる時間構造は、観光地への移動とは別物だと感じた。
巡礼路の現代、信仰と歩行の境界
中辺路を歩く人の動機は様々である。宗教的な巡礼として歩く人、トレッキングとして歩く人、世界遺産の歴史的価値を確かめに来る人、サンティアゴとの「共通巡礼者」証明を目的とする人——目的が一様ではないことは、地元の宿の経営者も「個人個人で違う」と話してくれた。
裏を返せば、巡礼路の「正しい歩き方」は一つに固定されていない。十二世紀の上皇の御幸記録、十六世紀の庶民の参詣記、二十一世紀の国際巡礼路としての位置づけ——熊野は時代ごとに歩行者の構成を変えてきた。中山道の馬籠—妻籠が宿場町を中心に保存されているのに対し、熊野古道は「道そのもの」を歩く体験の連続性が中心にある。地誌としての中辺路は、宿場の建築よりも、路面の石畳と、登りの呼吸と、滝の音の連続のなかにある。