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古道

東海道、五十三次と現代の国道一号線

この記事の要点

  • 歌川広重『東海道五十三次』に描かれた江戸—京都の街道と、現代の国道一号線・東名高速・東海道新幹線——同じ経路の三層を比較した覚書。
  • 江戸期の宿場の位置と、明治以降の鉄道駅の位置は完全には一致せず、その「ずれ」が現代の人口分布に影響を残している。
  • 箱根の関所、薩埵峠、桑名の七里の渡しなど、街道として現存する区間と、消えた区間の現在の地形。
  • 「東海道」を一つの動詞として読むことで、江戸〜現代の四〇〇年が見えるという編集部の整理。

歌川広重の『東海道五十三次』と、国道一号線の二四時間カメラ映像と、東海道新幹線の車内ディスプレイ——これら三つは、同じ経路を三つの時代から記述している。日本橋から京都・三条大橋までの約四九〇キロが、江戸期は徒歩で約二週間、明治の鉄道で約二〇時間、新幹線で約二時間二十分(東海道新幹線・公表所要時間)。同じ距離が三つの時間スケールに圧縮されてきた。

本稿は、五街道の代表である東海道について、江戸期の宿場、明治以降の鉄道、現代の国道一号線——三つの層が同じ経路の上にどう積層しているかを整理する試みである。

日本橋から、最初のずれ

江戸の起点は日本橋、これは現在も国道一号線の起点である(東京都中央区・公表道路情報)。一方、東海道新幹線の起点は東京駅で、日本橋から約一キロ南西。明治の鉄道は新橋を起点として開業し、その後東京駅(一九一四年)に移った。つまり、徒歩・道路・鉄道の「東京の出発点」は、四〇〇年のあいだに二度移動している。

もっとも、日本橋を出てから最初の宿場・品川までの経路は、現代の国道十五号線(第一京浜)と概ね一致している。その意味で、現代の都市道路の骨格は江戸期の街道筋を引き継いだ部分が多い(『街道の日本史 第一巻 東海道』吉川弘文館)。

箱根、関所と峠と現代の交通量

東海道の難所として知られる箱根。江戸期は箱根の関所が東海道の通過点で、現在は神奈川県箱根町に関所跡が復元されている。当時の所要時間は、小田原から三島まで急ぐと一日、ゆっくりだと二日。標高差は約八〇〇メートルである。

現代の国道一号線は箱根を経由するが、東名高速道路は箱根の北を通り、新東名高速は南を通る。すなわち、東海道の「箱根越え」は現代の高速道路では迂回されている。一方、東海道新幹線は箱根の南、丹那トンネル経由で熱海から三島へ抜ける——これは一九三四年に完成した丹那トンネル(東海道本線時代)が現代の経路の原型である。

つまり、現代の交通網は、徒歩で越えていた箱根を、トンネルと迂回路で「無くしてしまった」。中山道の馬籠—妻籠とは異なり、東海道の街道筋は、現代では「歩く道」としてはほぼ機能していない。例外的に薩埵峠など一部の旧道区間で歩行体験ができるが、それも数キロの単位である。

東海道は、現代では「歩く道」ではなく「通過する経路」になった。広重の絵に描かれた峠の茶屋は、高速道路のサービスエリアに位置を譲った。

宿場と駅、位置がずれた六か所

江戸期の宿場と、明治以降の鉄道駅の位置は、概ね近接しているが、六か所ほど明確に「ずれた」地点がある。最も有名な例は、東海道五十三次の桑名宿(現・三重県桑名市)である。江戸期の桑名は伊勢湾を渡る「七里の渡し」の出発点で、海上経路と陸上経路の結節点だった。明治以降、関西本線(現・JR関西本線)の桑名駅が設置されたが、海運の七里の渡しは一八九〇年代までに廃止された。

同様の「ずれ」は、現代の人口分布にも影響している。江戸期の宿場として栄えた集落の一部は、鉄道駅が他地点に置かれたために衰退し、逆に明治以降の駅周辺が新たな市街地として成長した。地誌としての東海道沿線は、四〇〇年のあいだに「中心地」を何度も移し替えてきた。

薩埵峠、現存する眺望点

東海道で広重の絵と現代の景観が最も一致する地点の一つが、静岡県の薩埵峠(さったとうげ)である。由比宿と興津宿のあいだの峠で、駿河湾と富士山を一望できる。広重の『東海道五十三次』第十七番「由井」の構図と、現代の薩埵峠展望台からの眺望は、地形的にはほぼ同じである。

もっとも、構図のなかに入る要素は変化した。江戸期は東海道の街道、現代は東海道本線・国道一号線・東名高速・東海道新幹線——四本の交通路が同じ駿河湾岸の狭い帯状の土地に集約されている。富士山は変わらないが、その手前の景観の情報量は、四〇〇年のあいだに何倍にも増えた。

薩埵峠は、現代でも徒歩で訪れることができる。由比駅から峠まで約四〇分、峠から興津まで約四〇分。熊野古道の中辺路のような長距離歩行ではないが、東海道の旧道を実際に踏める数少ない区間として、地元自治体(静岡市・公表観光資料)も整備を進めている。

東海道という動詞

「東海道」は名詞ではなく、動詞として読むほうが地誌の理解に近いかもしれない。江戸期は「歩く動詞」、明治以降は「乗る動詞」、新幹線時代は「通過する動詞」、そして現代は「複数経路を選ぶ動詞」になった。同じ経路に、徒歩・在来線・新幹線・高速バス・高速道路——複数の動詞が並列に走っている。

裏を返せば、五十三次の宿場の名前を順に並べるだけでは、東海道の地誌は記述できない。江戸の宿場、明治の駅、戦後の国道、現代の高速道路——四つの時代の四つの動詞が、同じ地理上で重なっている、そのことを認識するのが東海道を歩く・乗る・通過することの意味である。姫路城のような文化財建造物が「保存」の対象であるのに対し、東海道は「変容そのものを記述する」対象である。日本橋から京都までの四九〇キロは、その変容を四〇〇年分積層した最も長い帯状の地誌である。

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NipponAtlas 編集部

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